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junkieta.netFragment → when they cry3, 2008-10-27

うみねこのく頃に/考察メモ

六軒島における「施錠」の意味 2008-01-10

EP1にしてもEP2にしても「施錠」だけが「魔法」の根拠だ。派手に見える六人殺しも二・三人の単発の殺しにしても、鍵をかける・開ける方法がない、それだけが魔女の関与を疑う根本要因。

だが殺人と施錠が同一の意思に基づいたものである必要はない(ex.「ひぐらし」祟殺し編での犯行と死体の隠蔽は、圭一の意思と魅音の意思という別々の思惑から起きている)。であるならば、犯行の方法と魔法にみせかける方法は分けて考えるべきではないか。犯行がどのようなものかなんて関係ない。誰かが殺されたら、施錠して封印。それだけで犯行現場は「密室」となる。しかも、施錠を行うことができるなら、魔女の手紙を置くこともできるし、施錠された扉か手紙に魔方陣や思わせぶりな記述を残すことが可能。

…ここまで書いて気付いたが、EP1でもEP2でも、犯行現場はほとんど発見時に施錠されており、発見後も再度施錠されている。これはひぐらしで言うところの「強い意志」、つまり運命だ。以下、EP1のシャノンの言。

ちゃんと閉めたはずの窓や扉や鍵が、もう一度見回りに来たら開いていたとか。

消したはずの灯りが付いていたり、付けたはずの明かりが消えていたり。

置いたはずの物がなくなっていたり、置いた覚えのない物が置かれていたり。

……そういうことがある度に、古い使用人たちは魔女が姿を消してお屋敷に訪れて、悪戯をしていったのだろうと囁きあったそうです。

上記はEP2でも適用されている真実。別の地のテキストでも、真里亞はこれこそ魔女が実在する証拠であるとでも言わんばかりに、うーうーと胸を張ると書かれているように、鍵の自由が魔女の証拠となっている側面は否めない。

事実、施錠はほとんどの現場(ボイラー室での嘉音殺しと、最終的な「行方不明者」以外)で適用されており、結果としてそれらの状況証拠は魔女、あるいは魔法を指し示すものとして解釈されている。

魔女犯行説を主張する意思は、極めて強固に錬られたものであることをうかがわせる。園崎家が黒幕っぽいブラフを並べるルールと同様、「魔女犯行説」というブラフを広めるルールには人間の執行者がいると考えていいだろう。(もちろん碑文の存在など、それを助ける歴史的・状況的な土台も考慮すべきだが)

対して、個々の殺人は冷静に見れば「儀式」の成立要件としてあまりに大雑把。最初の「六人の生贄」は鍵が選んだだけのもの、寄り添う二人はどうにでも捏造でき、殺傷箇所の指定にいたっては殺害後に付け足しで傷をつけるだけでいい。

そしてEP1とEP2双方を見比べれば明らかだが、個々の殺人の方法や手順はまったくつながりを持っていない。しかも六人の死、寄り添う二人組の死、後は結び付け放題というように、後半の儀式ほど碑文との関連づけという達成条件はたやすいものとなっている。

つまり犯行現場を知る手段と施錠の方法さえ手にしているならば、魔女犯行説は殺人犯以外によって主張可能。そして殺人犯と魔女犯行説の主張者が異なっている場合、殺人犯ですら現在の状況に対し違和感と恐怖を抱くことは想像に難くない。

施錠をめぐるキャラクターの動きに注目してみれば、もう少し細かいことが言えるかもしれない。

聖書の参照 2008-01-19

せっかくヘブライ語と魔法陣、聖書の引用が出てきているので、聖書に当てはめてベアトリーチェを考えてみる。

魔女の行い=神の奇跡

「魔法」として語られる事象は、人間に「結果」が共有されているのに、「過程」が共有できないもの。これを駆使する魔女ベアトリーチェは、神とほぼ同様の言葉・振る舞いを行っている。ゆえに、「魔女などいない」という言葉と「神などいない」という言葉は等しい。つまり、魔女はその能力・特性において、六軒島の「神」と同義である。

作品中で登場する、魔法陣に書かれた文字も「神」への語りかけを含んでいる。ここでいう「神」とは、キリスト教における神であることが予見される。殺人現場に残された魔法陣には、いずれも旧約聖書詩篇の引用文が描かれているからだ。

第一の魔法陣
主は私の枷を解かれました。私はあなたに感謝の生贄を捧げ、主の御名を呼ぶでしょう
第二の魔法陣
主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを打ち破って下さいました
第三の魔法陣
あなたのように偉大なる神が、他におりましょうか

これら詩篇の後半はいずれも「神の行いに対する感謝」の節、ハレルヤの題材となる記述だ。もし魔女が「六軒島固有の悪霊」といった民話的な偶像であるなら、聖書の引用はおかしい。儀式の執行者は、「神」に向かって語りかけているのだ。

悪魔の証明

悪魔の証明という語は、「肯定はたやすいが否定は不可能」という意味合いで戦人たちがよく用いている。しかしそもそも悪魔の証明とは新約聖書に由来するもの。奇跡が起こせないなら神の子ではないだろう、という卑劣な追い詰め方、つまり「悪魔が求めた証明」を指す。

これは極めて皮肉な比喩になる。戦人vsベアトリーチェの構図を考えてみよう。「お前が魔女ならここで魔法を使ってみせろ」というのは戦人の論である。そしてベアトリーチェは奇跡を起こせるにも関わらず、異なる方法で悪魔(の証明)を退かせる。

つまり聖書的には「戦人=悪魔」、人間の全ての罪(殺人劇の責任)を引き受け、やがて復活する「魔女=キリスト」の構図となる。

「魔女=キリスト」vs「戦人=悪魔」

まずは見せかけの悪人ぶりを剥ぎ取って、彼女を聖人キリストと考えてみるとどういうことになるか。キリストが悪魔と出会うシーンから引いていこう。

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。

同様、魔女は戦人にあえて挑戦させている。ならば荒野とはゲーム盤の置かれた茶会である。

すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」

キリストは石をパンに変えない。後の使徒を連れた旅路で、パンを増殖させる奇跡を起こす力が確認されているのに、である。かわりに彼は、「神の言葉」を引き、悪魔を黙らせる。

それから悪魔は、イエスを聖なる都につれて行き、宮の頂上に立たせて言った、

「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

ベアトリーチェはどうだろう? 魔女は「証明の義務がない、試されてはならない赤文字」を使った。これが「神の言葉」でなくてなんだろうか。実際のところ「赤文字=聖書」なしに戦いを継続できないのは、ベアトリーチェの方なのだ。聖書は証明を必要としない、ただ神の行いと結果が事実として記されているだけのものなのだから。

では屈服させることの愉悦が飾られた見た目に過ぎないと考えた場合、なぜ「ベアトリーチェ=キリスト」が「戦人=悪魔」に勝たねばならないのかが不明。

神の子は人間の肉をもって生まれ、神の言葉を一身に背負って生きた。パンに自身を付与して人々に分け与え、自らの死をもって「人間全ての贖罪」を果たし、復活をもって「神の愛」を広めた。

あくまでキリストになぞらえるならば、ベアトリーチェの目的は、贖罪と復活である。物語中でもたびたび「復活」については語られているが、その前に「贖罪」、全ての人間に対し善性を取り戻させなければならない。

戦人は知人を疑わないと言った。しかしそれは見せかけの人間愛に思える。彼は人間として訪れたベアトリーチェがやったんだろう、ということにしてしまう。それは思考停止を招く。「お前の甘さは命取りになる」という魔女の言は正しい。

疑うことではなく、罪が誰にどんな形で現れているのかを知り、祓うことでしかその人間もまた救われない。鷹野美代は大災害を引き起こすことではなく、それを看破され罪を祓われることによってこそ救われた。そして贖罪もまた、富竹に支えられて初めて可能になった。

つまり最終的に完全な形でベアトリーチェに勝つには、ベアトリーチェの言う黄金郷=「生死を問わず魂が慰められる世界」ではなく、彼らの生きる現実自体が、罪の祓われた世界にならなくてはならない。つまり、魔女の力を借りずに贖罪と愛の復活を成し遂げるということではないか。

六軒島内の空間 2008-08-25

一階客間

EP1-2では篭城の根拠地に、EP3では最初に窓を破って侵入された密室となった。EP3の篭城はゲストハウスで行われるので客間は限られた回数しか登場しないが、気になる描写が多い。ここではEP3の描写を主軸に捉えてみたい。

まず、客間は、原則、施錠することはない。しかしEP3では数珠繋ぎの密室として施錠されていたため、絵羽に促される形で留弗夫が窓を叩き割って侵入することになった。ちなみにEP2の篭城時、扉をバリケードで塞いでなお不審者が現れるなら窓を破ってだろうと睨んでいる楼座が戦人に観測されている。窓の破壊後、紗音の死体・マスターキー・紋章入り洋形封筒(中に2階客室の鍵)が発見される。客間の状況はベアトリーチェの密室定義に準拠していた。

ここで押さえておきたいのが、窓が物理的に破られている点だ。霧江・留弗夫・秀吉の三名が屋敷に再度訪れた際に内側から鍵が開かないとの描写があったが、鍵の有無に関わらず客間からは脱出できたはず(ガムテープ程度の補強なら数秒で解除できる)。この点により戦闘状態にあったと思われる霧江たちとは違い、窓際のカーテンにくるまっていれば安全という、終盤の朱志香・嘉音の逢瀬のシーンの異常が浮き彫りになる。窓が割れているなら外に逃げることもできるし、外部になんらかの危険があるならば窓の破られていない別の部屋に閉じこもるべき。

考えられるのは朱志香・嘉音の逢瀬だけでなく、朱志香の部屋移動自体がフィクションという可能性。EP3-Tipsで行方不明扱いになる以上、朱志香の所在地は未確定のまま。そして譲治死亡確認時の客間以降、南條視点以外で朱志香は目撃されていない。さらに奇妙なのは、南條死亡後の客間周辺の動き。

朱志香の名前を呼びながら、戦人と絵羽が客間の前に駆けてくる。

…彼らは使用人室へ行き、南條の死体を見つけたため、姿の見えなくなった朱志香を探していたのだ。

南條の死を確認した絵羽と戦人は、一緒にいたはずの朱志香の安否を確認したのち、事情を聞こうとするだろう。しかし結局彼らが朱志香を発見できたのかはわからないままだった。戦人が絵羽に殺されたことだけがTipsで判明している。

客間に来たという描写がダミーだった場合、朱志香はどこにいたと推測できるだろうか?

ヒントらしきヒントはないが、朱志香と嘉音の逢瀬が現実でないとしたら、彼女が向かうのは嘉音の遺体が置かれた「礼拝堂」ではないか。死亡確認すらしていない想い人を、ここで強く求めることに違和感はない。それともう一つ、EP2のラストでは、礼拝堂でインゴットを抱えた楼座と真里亞が行方不明になった。第10の晩の礼拝堂と「行方不明者」になんらかの関係があると考えることもできる。

礼拝堂

この部屋は他の部屋と根本的に事情が異なり、鍵が一本しかない。郷田によれば、お館様の大切な礼拝堂の鍵ですので、一本しかなく、複製もありません。…普段から、使用人室のキーボックスに大切に保管されている。にもかかわらず、EP3では専用の鍵が一本しか存在しない点に言及していない。赤字で鍵を使用せず施錠できるような仕掛けは存在しないと述べられているが、その後の鍵にかんする赤字宣言は、各使用人が1本ずつで5本という、マスターキーの本数についてのみ。

礼拝堂の鍵はマスターキーによっても開錠できないし、複製も(EP3固有の特殊な事情でもない限り)存在しない。したがって、EP3第一の晩では最初に置かれたのが嘉音の遺体であることがわかる。このことがどういう意味を持つんだろう。

ボイラー室

EP1, EP3にて金蔵の焼死体が発見されるボイラー室。中庭に通じる出口の存在が確認されている(EP1)。EP3でのベアトリーチェの密室定義を信じるならば、EP3ではこの出口も外からは開場不可能ということになる。

金蔵の遺体だけは、残酷さの演出というよりは、焼かねばならない理由があったことをうかがわせる。また焼死体の発生については戦人の推理どころか、魔法による説明もなされていない。金蔵の死は、他の人物の死とは位置付けが異なると考えた方がよさそうだ。

焼死体の身元確認が困難であることは、前作『ひぐらしのなく頃に』でも語られていた。今回の場合、金蔵は「多指症」であるためまず本人と考えられている。逆に言えば「多指症」の遺体さえ用意できれば容易に偽装できるわけだが、入れ替わりよりはむしろ金蔵が親族会議前にすでに死んでいる可能性とか、物語上金蔵の担っている役割が根本的に他のキャラと違う可能性を疑うべきか。

まず金蔵は親族会議の間、戦人と一度も出会っていない(「黄金郷」の描写を除く)。各EPで金蔵と面と向かって会話している描写があるのは、「片翼の鷲」の使用人・EP1の夏妃・そして南條。金蔵を恐れてはいても、嫌ったり疎んじたりはしていない(と思われる)人物だけが面と向き合って会話している。そして金蔵はその所在が行方不明・または焼死体という形でしか語られない。彼は遺産や銃の所持、碑文といった物語の舞台にばかり関与しており、キャラクター間のやりとりにほぼ関係していないのだ。

ボイラー室で金蔵が死ぬことには、何らかの必然性がある。それは確かだろうが、まだその意味がつかめない。

貴賓室

貴賓室そのものについて気になる描写はない。だがEP2で貴賓室に訪れた際の嘉音が不自然。以下に三点挙げる。

これらの行動は、自らを家具と呼称することにこだわる嘉音らしからぬ行動。EP1では、源次が勝手に秀吉・絵羽が泊まる客室の鍵をあけることに対して嘉音自身が大袈裟な驚きを見せている。そもそも貴賓ベアトリーチェが実在したとして、あれだけ真っ黒な性格の人間を、激昂した朱志香に会わせれば何が起こるかわからない。思慮が足りないというより、別の思惑があるとしか考えられない。

物語上では、朱志香への同情・ベアトリーチェへの怒りといった、嘉音の心情描写がこうした不自然さを塗りつぶす。だがEP3のワルギリアの発言から推測すると、死亡の過程の描写は信頼度が低い。つまり、死亡以前に生存者と情報を共有する機会のない人間の視点は信用できない。まして嘉音はこの後に魔法バトルをやらかして行方不明、善意を証明しうる朱志香は死亡する。もともと嘉音は朱志香殺し、さらに後の南條・熊沢殺しにも奇妙な描写で登場しており、油断できるキャラクターではない。

ベアトリーチェの密室定義

EP3で明示された定義。以下に引用していく。

密室の定義は、内外の出入りが一切隔絶された室内を指す。当然、内外からの一切の侵入・脱出は愚か、干渉もできない。それは包括的に、隠し扉の否定、外部干渉の余地一切の否定を含む。

外部干渉の余地については、

外部から、釣り糸やら長くて細い棒やら等を使って直接的に干渉するあらゆる余地だ。つまり、扉や窓にはそのような小細工を混ぜる隙間すらもないと判断せよ。

と否定。さらに電波など、それに類する遠隔操作技術も干渉不可能であると語っている。

以上を包括的に、直接、間接のあらゆる方法で、室外よりの密室内への干渉は不可能と述べている。ただしノックや会話など、意思疎通の可否は密室の定義に反しない。さらに第一の晩の結果判明後に赤字で、6つの部屋の扉や窓はいずれも普通。オートロックのような、鍵を使用せず施錠できるような仕掛けは存在しないと付け足されている。

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published:2008-10-27