「ニコニコ大百科」のプレイ動画解説に違和感。
基本的には、ゲーム本編をプレイした動画全般をさす表現・タグの一種。
なお、ごく一部に誤解している人もいるようだが、ゲームの画像・音声なども著作権法によりしっかりと保護されているため、プレイ動画をアップロードする行為はアニメ本編をアップロードする行為と同じく立派な違法行為である。このことを肝に銘じておきたい。
(よく誤解される理由は、プレイ動画に関しては権利者が比較的寛容であることが多いためであろう。現在の日本においては、著作権侵害関係の問題については、権利者が申し立てをしない限り違法行為として認められないからである)
まず、議論の余地なく立派な違法行為
なら、どう検索すればそれを示す判例が裁判所ウェブサイトの判例検索ページでヒットするのかご教授願いたい。もし実在すれぱどんな判決となるのか、ある程度興味はある。
しかしこの解説にはプレイ動画の制作者・閲覧者にとって、もっと単純で大きな問題が含まれている。それを象徴するのが、プレイ動画をアップロードする行為はアニメ本編をアップロードする行為と同じ
という記述だ。これでは、プレイ動画の公開はただの「違法行為」にしかならない。アニメ本編
と述べているところから推測すると、いわゆるMADムービーとも区別されている。
要するにこの解説はプレイ動画の魅力について何も述べていないのだ。コンピュータゲームにおける二重創作性、「ゲームはプレイヤー側の介入を経て初めて作品となるのではないか」という指摘がまったく考慮されていない。以下にこの概念についての解説を引いておく。
ゲームというものが体験される際、それは単にクリエイターの作ったものを見たり読んだりするだけの形でゲームを体験するのではなく、例えばシムシティであれば、ウィルライトというクリエイターが作ったプログラムを下敷きにして、プレイヤーが街を作っていくことでゲームが体験される。それには「ウィルライト」というクリエイターが関係していると同時に「プレイヤー」という存在も同時にクリエイターとして存在しているのでなければゲームという体験はなりたたない。そこに二重の創作が存在している、と見ることができる。
この文脈を踏まえるならば、プレイとはゲームを作品として完成させる創作行為だといえる。通常そこで生み出される作品は、制作に携わったプレイヤー本人にしか受容されえないが、記録されたプレイは多くの人間に視聴可能な作品となりうる。それは発売されたゲームの影響下にありながら、プレイヤーの活動なくして存在しえないものでもある。
プレイ動画の公開を単なる「違法行為」として括ることは、無数の作品群と、それを生み出すプレイヤーの創作性を無視する暴論である。著作物としてのゲームから引用はどのように可能かなど、二次創作についてのガイドラインは必要になるだろう。しかしプレイヤー間ですでに行われている一種の作品交換を否定するのであれば、「ゲームのプレイは非社会的である」という謗りが、的を得た現実となってしまう。そんな展開を誰も望んだりしないはずだ。
1日の昼頃、山奥の実家へ柚子狩りに行った。一応完全なる無農薬栽培。祖父の死後管理を継続できていないので、伸び放題荒れ放題の畑からかき集めてきた、というのが正確なところだが。しかし味と香りは一級品で、そこらのスーパーで売っているものとはわけが違う。自分で採ってきたものゆえのエコヒイキもあるかもしれないが、売り物ではない以上色眼鏡で充分。
今年は柚子が不作でほとんど採れないと聞いていたのだけれど、実際には相当量の収穫を得た。他の枝に邪魔されて日陰となる木が多かったため、間引きを兼ねて枝を切り落としつつ、高所になっていた果実を剪定ばさみでバツバツもぎとっていく。
12月にもなると、柚子の果実はほとんど黄色一色。日差しに当たると、ブツブツの表面が光を強く反射する。たまにとてつもなく鮮やかな色を持つ実があって、もいでしまうのがもったいない気持ちになることもしばしばだった。結局回収するけどね。
たくさんの柚子を見ていると、たまに守るべき果実に棘を突き刺してしまっているお茶目さんがいる。丁寧にはずしてやると、ぽっかりと穴が開いているのを確認できる。ただ、人間の肌に刺さる場合と違って腫れたりはしない模様。いたみは早そうだが、すぐ使う分にはなんら問題ない。
直に見たことがない人は知らないかもしれないが、柚子の木はなかなか凶悪な姿をしている。非常に太く鋭利な棘を枝という枝から生やして、果実を狙う不届きモノを串刺しにしてやろうと待ち構えている。さらにそれらはただの棘ではなく、立派な毒性が含まれている。刺された箇所は腫れ上がり、ヒリヒリと何日も痛みが続くことになる。
当然ながら、収穫時は肌を露出させる服装などできない。それどころか柚子の棘は薄い生地なら簡単に貫いてしまうので、できるだけ頑丈な上着・ズボンを着用した方がいい。できれば靴もブーツの類を履きたい。
そこまでしたとしてなお、密林化した柚子畑の中を歩く時は、顔などを切らないように注意して進まなければならない。柚子の枝はほとんど触れることもできないくらいびっしりと棘を生やしていて、かするだけで傷だらけになれる。柚子でお肌の美容とか言っている人は、けして柚子を収穫しない人種だと思う。
ちなみに回収した柚子は昨日、早速シフォンケーキにした。去年作った柚子焼酎と今回の成果を卵黄に混ぜ込んでやると、甘さ控えめしっとりシフォンに。ほおばった後に柚子の香りが口周りに残って、後味が心地よい。上出来。
マリオが現実界を爆走というネタに衝撃を受けた。
悪名高いフランスのコメディアンRemi Gaillard(レミ・ガイヤール)氏が、驚くほどよく出来た現実版マリオの動画を制作した。
バナナの皮も投げるほか、レトロな任天堂のゲーム音楽や口ヒゲなどで、マリオの有名なカートレースを再現している。
公道でバナナを投げまくる馬鹿さ加減には脱帽。悪ノリのレベルが高いよ。数年前にもパックマンのルールをマンハッタンに持ち込んで遊ぶネタ、Pac Manhattanがあった。こちらはマリオカート実演と違ってポリスにつかまるようなネタではないが、小学生がゲームから派生させたごっこ遊びみたいな雰囲気が共通している。
パックマンハッタンは、ニューヨーク大学の大学院のインタラクティブ・テレコミュニケーション・プログラムによるゲーム設計の実験で、1980年代にブームとなったビデオゲームをニューヨークの街を舞台で実演しようという試みだ。
実演マリオカートは公開を前提としたパロディであるのに対し、人間パックマンは一つのアナログゲームとして確立されたものであり、両者の質は異なる。言い換えると、人間パックマンは「面白そうなゲーム」だが、実演マリオカートは「面白い動画作品」だということ。そして「ゲームの面白さ」と「ゲームプレイ映像の面白さ」は別物だ。
言ってはなんだが、人間パックマンの映像集は手ブレ等が大きく、何をしているかもよくわからない状態で、映像としての完成度は低い。一方で実演マリオカートは、動画を見てもマリオカートというゲームが面白いかどうかまるでわからないが、マリオに扮したコメディアンの動画としてストレスなく楽しめる。
ゲームを題材にしていても「ゲームの面白さ」とは異なる楽しみが作品の価値となる点において、ゲームプレイ動画は実演マリオカートと同様の事情にある。ゲーム誌のライターが書く先行レビューであれば、対象となるゲームの楽しさがテーマになるだろう。しかしプレイヤーの投稿するプレイ動画の多くは、ゲームの質についての情報ではなく、ゲームと向き合うプレイヤーの姿こそが作品の根幹となる。それがどんな発展をしうるのか、目下楽しみで仕方がないところ。
かれこれ4年以上Firefoxを使っている癖に、サイドペインを活用していなかった自分に愕然。表示領域を圧迫しそうな機能を極力使わないようにしていたのもあるが、ブックマークやアンテナは固定表示できた方が便利。
ところでTexTsiTeで提示されたユーザースタイルでは、次に引くようにリンクリスト以外ほぼ全て削り、表示領域の圧迫を防いでいる。
- h1,
- span.modified,
- #simple-header,
- #hatenavi,
- .info,
- .pager,
- .author,
- #footer,
- ol[style="list-style-type: none;"]
- {
}
- display:
- none
!important
;
だが更新時刻に該当するspan.modified
の消去はもったいない。そこで、引用部分に付け加える形ではてなアンテナのサイドペイン向けスタイルを書いてみた。擬似クラスとposition:absolute
を利用し、操作に応じて表示されるよう改変。それに加えて、どのアイテムの更新時刻なのかがはっきりわかるようにリストのスタイルもなんかもいじって完成。名付けて「HatenaAntena::Popup Modified」(そのまんま)。
!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;!important
;"更新:"
!important
;欲を言うなら、キーボードのタブナビゲーションを利用したいところだった。もしもはてなアンテナが更新情報を捕捉先タイトルの前方ではなく後方に出力してくれていれば、a:focus + span.modified
への指定が可能になる。ユーザースクリプトを使えば現状でも可能だけど、そこまでする気力はない。
ところで本題とは関係ないが、CSSの記述は整形済みテキスト(pre
要素)ではなくて、定義リストとしてマークアップすることにした。CSSはスタイルの定義用言語ということもあり、<!ELEMENT DL - - (DT|DD)+>
で全て適切に処理できるように感じたからだ(同様にDTDもいけそうだ)。
現在当サイトで適用中のスタイルでは、CSSの「ソースコードっぽさ」を演出するために:before
と:after
を利用してブラケット等を生成したりしているが、スタイルシートをカットしても違和感なく読めるし、ぴんくいんでんとだってスタイル指定で実現できる!ということで、このマーク付けはすっかりお気に入りになった。でもコードの利用可能性とかがずいぶん落ちるので、ブラケット等の自動生成は止めることにした。
以前から印刷時に参照先一覧を生成するスクリプトについて何度かふれているが、よく考えてみると制作者がそんなものを用意していてもかえって邪魔になってしまうこともある。だいたい印刷しておきたいウェブページなんてそう多いわけでもない。でもあることはあるってのが面倒な欲望ってもので。ドメイン別に適用するユーザースクリプトなどは、導入に手間がかかるし。
で、得た結論はブックマークレットの利用。印刷したい、と思ったときにブックマークを開くだけってのはかなりステキなんじゃないかと思った。...といっても制作者スタイルシート・スクリプトとの競合とか、そんなことまで考慮しながら書いてたらブックマークレットの文字数制限なんてあっという間に超えてしまう。というか、実際に作ってみて文字数が肥大するわするわで大変だった。サーバーに置いたスクリプト本体を読ませるようなやり方はしたくなかったし...で、なんだかんだで作ったものを以下に示す。
ブラウザ別拡張機能とかと違って、ブックマークレットは登録も解除もブックマークの編集と変わらないインターフェイスでできるってことがすごい手軽。セキュリティ的に考えれば無節操に人にすすめたいものでもないが、使いどころによっては非常に便利。
ただ、上記ブックマークレットはCSS2.1のbeforeとafterを利用していないのが前提のスクリプトなので、引用・リンクの属性生成をスタイルシートで指定している文書に適用すると参照情報が二重に記述されてウザイという罠。そういうときは文書側のスタイルシートを弾いてしまうか、スクリプトの利用をとるか、ケースバイケースで。
はてなブックマークのエクスポート機能でRSSとかAtomとか出してみたら、各item
のdc:creator
がブックマーカーの名前になってるのに気付いてびびりまくった。それってRDF的にやばすぎるんじゃないか。制作者本人がブックマークしてるようなパターンは別として、item rdf:about="http://foo.com/"
のくりえーたはブックマーカーじゃないでしょ、どう考えても。ブックマークページを指してるchannel
には記述してないくせに、なぜに個別のitem
にそんなもん入れるのか理解に苦しむ。著作者を騙ってると言われてもおかしくない。
- 27:Name_Not_Found:03/07/23 08:00 ID:???
- RDFがまともに機能しはじめれば瞬く間に問題になるのはメタ情報の詐称だろうな。
ひょっとして問題にすらならず、気付けば詐称データばかりとかいう状態だったりするのか。
…あれ。いつのことかわからないが、はてブのRSSはきちんと修正された模様。item rdf:about
がブックマーク対象ではなくブックマーク一覧ページのIDを指すようになったので、dc:creator
は一応正当。
ダンジョン生成 by JavaScript+CSS+HTMLが若干ウケているようなので、たまにやってる作業を少し説明。一応目指しているのは、HTMLでシナリオを書けるダンジョンツクールというところ。RPG的なシステムを用意するかは別。VALIDなHTMLを面白く扱うツールが作りたいってのが根っこ。
だからシナリオとして(X)HTMLを処理する仕組みは用意したいと思ってる。メタプロフィール(head profile="hogehoge"
で参照するメタ属性の定義)策定をして、<link rel="gameover" href="deadend.html" title="◎イガー道場">
とかを読み込んで処理する仕組みとかやってみたいなと。まあ、その場合XHTMLのほうが圧倒的に使いやすいんだけど。ただし今はシナリオ記述の基本的な定義とかじっくり考えてる余裕がなくて、あんまりすすんでない。そもそもソースを隠匿できないエンジンに需要があるかあやしいところか。
現状ですでに動くレベルのものとしては、同じくJavaScript製のマップ手書きツールが手元にある。
どうみてもインターフェースは世界樹なダンジョンだけど、一応アイコンとかカーソルは手書きの256色ビットマップ。絵心ないんだけど、ドット絵は楽しいよ。ただし作ったのが結構前で、公開中のダンジョン用スクリプトで読み込めるようになってない。あと、マップ上に階段とか置けるようにしたけど、3Dダンジョンで描画する階段なんて作ってねーよ、とか。
あ、でも登り階段だけならCSSでできなくもないか。border-style:groove solid ridge solid;
とかやってやればいいんだ。でもInValidなHTMLは生成しない。半ば意地。今ダンジョンの壁描画に使ってるUL要素も、座標ごとのイベントIDをURLで記すリンクリストにしたいと思ってる。URL次第で、その座標にドアとか階段とか描画する、という処理はアリかな。
あなたは誰かを哂うことでしか保てない何かのために、ブログというシステムを、ウェブという媒体を、インターネットというインフラを、使った。自身がいかに苦しんだかと自問し、いかに自分の周囲が馬鹿なのかと力説し、まともな自分が「生きにくい」今という時間は書かれ・読まれ・共感され、いずれ清算されてしかるべきだと信じ疑っていない。
こんなに辛いけど、頑張っている。頑張っている。頑張っている。ねぇそうでしょう、頑張っているでしょう。だから自分を見てください。これほどまでに鬱屈した日々を、こんなにも生き抜いている姿を見てください。そうだ、苦しみを理解してくれる人はいる。コメントも、メールも、自分をねぎらう言葉に包まれている。苦しい日々を耐える自分の姿は、理解を得ることのできるものだ、間違ってなんかいない。
それは一種の信仰であり、一種の願掛けでもあり、自他への呪いともいえる、夢。あなたはあなたを取り巻く人々ではなく、見つめ返した自分の姿でもなく、あなたを見ることもかなわぬ人々、いや人の姿をしているかもわからない何かに向かって、辛く厳しい日々を耐えた自分の姿をアピールしようと考える。でもどうやって語ればいい?
自分はこれほど色々考えて動いているのに、それを想像もしないで好き勝手なばかりの周りの人たち。彼らの鈍重さ、彼らのズレ。そしてその中に生きる自分の努力を、書き残していくんだ。自分を真にわかってくれる人たちに、この辛さを理解してもらおう。そしていつか、穏やかに過ごせる日々をしっかり掴むんだ。
剥き身の自分が醜いかもしれない、などという恐れはあなたにはないようだ。しかし僕は予言しよう。あなたの試みは失敗する。この上なく薄汚い憎悪の念を調理しきる努力ではなく、努力というオブラートに包んだだけの憎悪は、誰も消化できない。哂うことでしか保てない平穏は、哂われる恐怖にしか結びつかない。だからあなたは誰一人として、当然あなた自身すらもその言葉で救うことはできない。どれだけあなたが神聖なる祈りを内に秘めていようとも、その言葉が含む毒にあなたは耐え切ることができない。
単にあなたの寂しさから生まれただけの言葉、しかし人を哂うという形式に堕した言葉、それがどれだけおぞましき外見を作り出すか、あなたはおそらくご存知ないか、想像が及んでいない。だが言葉は感情を彩る虚飾ではなく、捉え、批判し、育て、作り上げるものではないのか。だからこそ僕は言葉を知り、使い、書くことから離れたくないのだ。あなたは、違うのか。
ダンジョンネタの実装を考えててふと思ったんだが、3Dダンジョン探索型のSNSってどうだろう。DIXIとか名付けて。
ゲーム的にしていくなら、リスクなしで日記が書けるとかお友達増やせるんじゃ面白みないし、縛りだらけのSNSになるなぁ。もし自分がシステム組むなら日記の(X)HTMLの妥当性は厳しくチェックするだろうし。あ、それもゲームの要素にしちゃってなんらかの形で得点化してしまえばいいのか。HTMLりてらしぃ向上げーむ。
オンラインゲームとSNSの融合!的なキャッチフレーズで、誰か企画乗らないかなぁ。乗らないわな。
userstyles.orgにユーザー登録し、Goo辞書の装飾だらけな検索結果を一網打尽にして読みやすさだけを目指すユーザースタイルsimple dictionary-gooを公開。FirefoxユーザーはクイックサーチでGoo辞書を使っている人も多いと思うし、需要はあるかもな、と。
せっかくuserstyles.orgのアカウントを取得したことだし、今後公開したいユーザースタイルが出てきたらそちらを使うことにしてみる。ただ理由はよくわからないものの、あちらの仕様ではCSSソースがスクリプト無しに表示されない。ので、特にコードの細かい点について説明するときはjunkieta.netを今までどおり使うことにする。
Junkieta.netにアイコンを設置した。ドットで打ったアイコンは上りと下りを用意してあったのだが、どちらかにしようと思った時、反射的に下り階段を選択していた。
ずっと、上り階段より下り階段が好きだった。日の光より地下の暗さに惹かれた。ただただ地下へと下り続ける「不思議のダンジョン」シリーズのデザインが好きだった。ほとんどのロールプレイングゲームがダンジョンに挑めと求めることに違和感も持たなかった。王宮や村で買える道具などではなく、薄暗いダンジョンに隠された宝を追い求め、血塗られた地下という空間を常に目指した。より暗くより深い奥底に棲む、より強くより凶悪な敵を求めた。
僕は戦うという特権をゲームの購入と共に得て、武器を振るう。いくらか慣れてくるともはや戦闘は作業と化す。それでもやめずに武器を振るうのは、意義があるからだ。魔物という存在の否定と抹消、その影響としての世界の変化、安心と安全と平和の到来、喜ぶ人々。だが意義はエンディングによって打ち砕かれる。すでに救われてしまった世界は、敵の不在という喪失感だけで埋め尽くされる。もう戦うコマンドは、この世界で選択されるべきものではなくなってしまった。
ああ、もうこれ以上の悪は存在しないのだと。戦うべきだと信じさせてくれるどうしようもない悪党は、もはやこのゲームにいないのだと。そう納得して僕はコントローラを置く。多くの地下世界がみせてくれた恐怖と暴力を反芻し、これまで戦ってきたものを愛でて過ごす。また下り階段が現れるまで。
僕はコンピュータと向かいあう時、コタツにあたってモニタを遠巻きに見ながらキーボード + ワイヤレスマウスで操作している。が、大したモニタを持っているわけでもないので、かなり頻繁にCtrl +とCtrl -でフォントサイズを変更しつつウェブの閲覧を行っている。そうすると、ウェブサイトのデザインにクソが多いことがよくわかる。「ナビゲーションバー」なんかに表示領域を持っていかれると、一行に20文字程度しか本文が入らなかったりするし、流し込みではなく位置指定を使われている場合は本文領域が隠れたりする。
こういう事情のために、僕はサイトのスタイルシート・スクリプトを読み込むのは文章を読んでからということが多い。カットがデフォルトで、信頼できそう・便利そうなサイトでは許可を出す、という閲覧スタイルだ。そして「ああやっぱり」とがっかりする。Web2.0はバズワードで、セマンティックウェブは机上の空論で、つまるところウェブデザインは排除の論理なのだな、と。
ユーザースタイル、ユーザースクリプトの公開というテロルが今のウェブにおける刹那的な希望の一つとしてある。排除を排除する手練手管を使えば、自分(及び、似た傾向の閲覧者)にとっての個人的な問題の多くは解決する。今はまだ、そういう段階。
なんでもいいから名前を二つ入力してやると色々なモンスターを生成してくれるまぜまぜモンスターが面白くって色々試していた。特に納得してしまった組み合わせはらき☆の、あのお二人。
- ヴァルキリー
- HP
- 449
- MP
- 468
- STR
- 907
- DEF
- 22
- SPEED
- 728
- LOVE
- 27
- いつもオイシイとこばかりもっていくこなたのシタタカさと、あまりのすごさに圧倒されるかがみの美しさにより生み出されたモンスター。白馬に乗り戦う戦士で、神の使者といわれている。その美しい鎧の輝きによりオーロラ現象が起こる。
説明文にビタリ賞をあげたい。モンスターファームでバイオハザード読むとゾンビが生まれる、とか有名キャラクターを決め打ちで作ってあるほどの一致じゃないんだけど、こなたのシタタカさ
かがみの美しさ
というフレーズがツボってしまった。槍を持ちながらかがみにまたがって遊ぶこなたと、文句を言いながらもこなたにからかわれるのがちょっと楽しいかがみ、とか妄想。
しかし画像で説明するだけになってるのはもったいないなぁ。未定義とはいえせっかくパラメータまで自動生成しているんだから、何かルールを決めて対戦なり冒険なり、キャラクターを活躍させることのできるシステムを作ればかなり面白そうなのに。
ああ、飢えてるな、面白いゲームをやりたいな、作りたいな。最近昔馴染みの仲間どもと「ゲーム作ってみないかい」って話をよくしてるので、頭がかなりそっちに行っている。大学院卒ニートと経験半年のSEと絵とバンドが好きな床屋さんの三人組で作れるものってなんだ。ゲームだ。とかそういう流れ。
もっともそれなりのレベルのものにしたかったら、企画と仕様と納期と役割分担、どれもきちんとやってかないとまず無理だろう。そうそうまとめられるとも思えない。ツクールしか経験してないし、みんな。それでもゲームっていまだに熱く語り合える数少ない題材だし、一緒に遊べる時間が使えるうちに何かしたいよなって盛り上がってしまう。
年ももう明ける。もしできるなら来年は、大作とかすげぇ凝った作品とかじゃなくていいから、作りたいものを人と一緒に満足できるところまで作ったっていう経験をしたい。