「うみねこのなく頃に」の出題編にあたるエピソード1~4を終えたので、「右代宮家」という単位にもとづく条件で考察を始めてみる。ネタバレしまくり。内容は暇を見ながら随時書き足す。
右代宮縁寿の登場により、1998年における六軒島内部の状況が部分的に描かれた。島内に立ち入り禁止 東京都
の看板が立っていたり、屋敷までの道が崩れていてビルの屋上から飛び降りた縁寿でさえ降りるのを諦める崖となっているなど、1986年時点とは激しい落差があることを匂わせると同時に、その原因についてはおそらく意図的に制限している。崖についてはまだ長年の風雨の影響かもしれないといった記述も存在するが、右代宮金蔵(「事故」後は右代宮絵羽)の私有地だったはずの土地が東京都の管理下に置かれ、さらに上陸禁止になっている
理由などはまったく触れられていない。
地形の変化、及び封鎖などという事態は、大規模災害・軍事的被害といった個人というレベルを超えた力の発動に思える。だが天災だとすれば、絵羽が「事故」後に何も語らないことや、誰が調べても真相に辿りつけないというウィッチハンターの言が不自然だ。「地形の変化」という点だけでいえぱ、EP1・2で幾度か触れられていた「鎮魂の社」への落雷などが類似の現象として挙げられるが、社についての具体的なエピソードが乏しいのでこちらはひとまずおいておき、軍事という線を追うことにしたい。
軍事的な何かが動いたと想定するなら、その理由・目的は「後始末」にあると思われる。前作「ひぐらしのなく頃に」においても軍事力の動員が描かれていたが、その行動目的は「証拠隠滅」を重視したものであり、「事後の世界」が立ち入り不可能な空間と化していることは共通した特徴だ。つまり闇に葬りたい何かが六軒島にもあり、それが個々の殺人劇とは別の思惑で最終的な「全滅」という結果を招いているのだと仮定することはできる。また右代宮家の当主という地位それ自体が継ぐだけで命を狙われるだけの理由となる ― 排除に軍事的動員を必要とするだけの「脅威」となるのであれば、金蔵が人に心を許さない頑なさを抱いていたこと、後を継いだ生き残りである絵羽が同様に精神を疲弊させていったことなどについての説明がつく。強すぎる力は、持つ者を排除する勢力を呼び込んでしまう。
さて、仮に六軒島の「事故」に軍事的介入が絡むなら、右代宮金蔵の「事業」、莫大な利益を上げたというその過去が関係しているように思われる。子どもたちもそれぞれ事業は展開しているものの、金蔵ほどの業績を生み出していないことは幾度もふれられているし、何より時代的な背景として金蔵がもっとも軍事と近い。1986年の親族会議では、遺産相続の問題はあくまで資金としての財産が誰に流れ込むかという次元でしか進行していないが、このような仮定をつけると右代宮家の当主継承問題は資金の問題だけではすまない、対外的な意味も大きい複雑な問題となる。こうした点を意識しながら、金蔵が財をなした原因に軍事があるという説を提唱しておこうと思う。
もともと右代宮金蔵については「常に焼死体で発見される」という不審点があったが、EP4にて1986年の親族会議開始時点で既に死亡していることが確定(前回の考察メモにおける推理は正答)した。この事実を踏まえると、金蔵という人物は1986年の殺人劇の参加者ではない。しかし今回の殺人劇は「右代宮戦人の六年前の罪」も発端の一つとして挙げられるほどに根深く、長い年月の影響を受けたものであることが予想される。つまり右代宮金蔵、ひいては右代宮家当主という存在、右代宮家という系譜について考えておいていいはずだ。
金蔵による右代宮家再興の過程については、戦人がEP1にて詳細に述べている。いわく、右代宮家は紡績工場をいくつも持ち
事業を展開していたが、関東大震災でガタガタになり、その後を継いだ金蔵が戦後になって進駐軍の庇護下で大事業を成功させて成り上がってい
ったという。金蔵は進駐軍と強い結びつきがあり、そのおかげで朝鮮特需を莫大な利益の源泉として利用できた。この点が右代宮家再興における最大のポイントだったようだ。
よっぽどぶっといコネクションを進駐軍に作ったに違いない。……祖父さまは朝鮮特需が起こるのを、その前から知っていた。
いや、それどころか、朝鮮特需が起こることを最初から見越していて事業を食い込ませていたのだ。
右代宮家がもともと手がけていたのは紡績工場の経営である。そこから一体どこに事業を食い込ませて
いったのか。朝鮮特需とは、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵站を提供する形で日本国内の取引量が大幅増加した現象をさす。ここでいう兵站とは、次のようなもの。
戦争勃発直後の1950年(昭和25年)6月に米軍の在日兵站司令部が設けられ、直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。(...)当初調達された物資は、土嚢袋、軍服、軍用毛布、テントなどにおいて使用される繊維製品と、前線での陣地構築に必要とされる鋼管、針金、鉄条網、コンクリート材料(セメント、骨材(砂利・砂))など、そして各種食料品と車両修理であった。
兵器や砲弾などの生産は1952年(昭和27)3月のGHQ覚書によって許可された。車両修理、航空機の定期修理(IRAN)を、第二次世界大戦当時に戦闘機や戦車を生産していて、技術的ノウハウがあった現在の三菱重工業や富士重工業(※)に依頼した(...)
これだけの一致があれば、事業の推定は可能だろう。お屋敷が竣工したのは昭和27年
(=1952年)であり、兵器生産の開始と年号が見事に一致する。時系列としては、金蔵がGHQの肝煎り
で強引に伊豆諸島の小島(六軒島)を水産資源基地
として取得、島にはすぐに屋敷が建てられ
、さらに礼拝堂が同時に建立された
という順序だ。そしてそして後に金蔵は鉄鋼業界の大株主
となり、配当金だけで悠々自適
という生活をするようになる。また、六軒島の購入自体はGHQのお墨付きあってのものだったが、後に東京都は返せとゴネた
ともある。ここでは追いきれないが、1998年に「東京都」の看板が立てられていることとの関連がありうるかもしれない。
さて、島の取得に進駐軍が絡んでいる以上、取得と同時に建てられた屋敷と礼拝堂には金蔵の都合だけでなく、進駐軍との利益の合致があったと思われる。また、当時からの鉄鋼業界は軍需生産に携わった企業である。僕はこれらの状況から、兵器・兵站の生産・管理・輸出入、あるいは兵隊の治療・訓練など、六軒島は一つの軍事的拠点として構成されたという仮説を提示しておく。この仮説に基づいて、次は島内の各施設について追記するつもりだ。