「青少年が殺人に抵抗感をなくしているのはこうしたゲームの影響が大きい」とマスメディアから何度も揶揄されてきた、CAPCOMのいわくつきヒットシリーズ。次々に立ち現れるゾンビの群れを、なりふり構わず撃ち殺したり逃げ回ったりしながら「生き延びる」ことを目指すゲーム。記載されたジャンル名は「サバイバルホラー」。「ゾンビを殺すのが面白い」と安直に語られるがゆえに、「これは殺し=面白いとする作品→悪影響だ!」とされる。ある意味、現在のゲーム悪影響論における「残虐性・粗暴性の増長」というイメージを作り上げた作品と言えるだろう。だが僕は最初に述べたスタンス通り、こうした影響論には立ち入らない。あくまで、ゲームを論じる土俵作りこそが僕の関心である。
今回の論考ではまず、『バイオハザード』の世界で「生き延びる」ため、プレイヤーに課されるものを示す。そこからモニター上に演出される「恐怖」を分析し、その上で「恐怖」と「生き延びる」快感のつながりを見ていく。
まずは簡単に『バイオハザード』の世界について述べておく。『バイオハザード』シリーズでは登場するほとんどの人間がゾンビと化しており、話の通じる人間を見るのは数少ないイベント中だけだ。ゾンビは問答無用で主人公に襲い掛かって来る。コミュニケーションなどまったくありえない。ただただ襲いかかってくるのである。プレイヤーは逃げるか戦うかしかない。
そして『バイオハザード』では、他作品の論考で述べてきたような「仲間」も存在しない。正確に言えば、物語上の「仲間」は存在するが、システム上は存在しないのだ。ストーリーの進展と共に色々な手助けや協力をしてくれるのだが、基本的に「別行動」をとっている。要は特定のイベントでしか現れない。普段のゾンビ達との格闘において、何一つ共に助け合うことなどないのだ。
これらの設定から、プレイヤーは「頼れるものは己だけ」という人生哲学をプレイ中に背負わされる。たった一人のゲリラ戦をこなし、絶対的状況下をくぐり抜けなければならないのだ。そしてそこにまつわる視点をこれから解読してゆく。
ゲームにおける「敵」は「資源か脅威」である、と以前述べた。しかしこの『バイオハザード』においては、その両義性は分離し、対立する。まずその仕組みを示したい。
ゾンビたちは、本当にたくさん登場する。しかし多くのゲームと異なり、彼らに「資源」の要素はない(脚注1)。彼らをいくら殺しても、プレイヤーは何一つ得るものがない。むしろ銃の残弾は撃つたびに減少し、ゾンビを殺せば殺すほどプレイヤーは「資源を失っていく」のである。そして失った「資源」は、自ら探すしかない。ゾンビに傷つけられた身体を癒す薬草も、銃弾の補充も、自分の足でその世界を探し回るしかないのだ。敵を倒してお金が手に入ることもないし、そもそも開店しているお店などない。そして成長してゾンビを素手で倒せるようになるわけでもない。「脅威」撃退のコツを掴み、「資源」の効率良い使い方を考え、ただただ「生き延びる」ための散策を続けていく。まさにサバイバルである。
これまでの論述で「生き延びる」という命題と、「資源」と「脅威」の分離と対立、この二つについては理解してもらえたと思う。ここから、これらの諸要素が「恐怖」として構成されていくさまを見ていく。
まず銃弾や薬草といったものだけでなく、自身の身体までもが「資源」としてみなされうることに改めて注目してもらいたい。そしてどの「資源」も、無限大に供給できるわけではなく、限りがある。ゆえに効率的な運用が切実に求められる。
そして「資源」を供給してくれなどしない、ただそれを奪う、消費させるものとして存在する純然たる「脅威」。コミュニケーション、取引、そういった観点がまったく通用しない、ただただひたすらに「脅威」として存在し続けるゾンビ達。
こうした観点を常に持続させるのが、「生き延びる」という大目的である。そしてこの目的を大事に抱いている限り、世界の全ては「資源」と「脅威」に分断され続ける。これは善悪という基準からは捉えられない、孤独な一生物としての視点である。ありとあらゆる事象を「生き延びる」という目的のために分類して捉える目だ。つまり「生き延びたい」と強く願うほどに「資源」と「脅威」の分断は進行し、世界はより明確な境界線で区切られていくのである。
ではその分断の進行が示すものは何か。それが「恐怖」の際限無き増殖である。自身を防衛しようと「資源」をひたすらに求め、「脅威」を撃退しようと消費する。「資源」をどれだけ手に入れようと、それらが有限であることを知っている以上、そして「脅威」がなくならない以上、少しでも多くの「資源」を手元に置いておかなければならない。どれだけの武装をしても「脅威」はちっぽけにならず、常に「脅威」であり、安堵の時は絶対に訪れないのである。
以上、『バイオハザード』の掲げる「サバイバルホラー」というジャンル名に即した考察をしてきた。だがもう一つ、追記すべき点がある。それはあらゆるゲームが「やり直し可能」であることだ。そしてこの作品ほどにこのことの意義を考えさせられるゲームはそうそうない。
『バイオハザード』のプレイ中、熱中しているプレイヤーはキリのない「恐怖」と格闘する(脚注2)。たとえがたいほどの集中力を発揮し、「生き残り」を目指す。だが、そういうプレイヤーの心理状態にも例外が起きる。それがセーブの瞬間(脚注3)だ。
セーブすることによって、プレイヤーは「やり直し」の地点が保障されたことを知る。主人公はプレイヤーのセーブという行為によって、何度でも蘇ることが可能となる。それでゲームでの「死」が、一回だけやってくる絶対的な最後通告ではないことを実感する。この時、それまでの「恐怖」は嘘のように消え去る。それは「生き残り」が至上命題でなくなる瞬間だからである。がっついて求めるほどの唯一無二の財産でないことを感じるのだ。さらに電源を切ってプレイヤーは安堵する。セーブする画面、そして何も映さぬモニターには、守るべき「資源」も襲い来る「脅威」も、そして「生き延びるべき自己」すらも存在しないのだから。現実に目を戻したプレイヤーが見るのは、「資源」でも「脅威」でもない、なんとも分断しきれぬ曖昧な日常である。
この時こそが、まさに「生き延びる」快感を味わう瞬間だと結論づけて論を終える。
ACTやSTGの分野においてよく利用されるシステムとして、スコアがある。倒せば倒すだけ得点が上がり、最終的に何点とれたか。これを競わせるランキングなどもある。「資源」とは若干異なるが、敵を倒す動機付けの役割は果たしている。
だが『バイオハザード』には目に見えるスコアすらない。つまりプレイヤーは「脅威」を打ち払うという以外に敵を倒す動機が得られないのだ。