任天堂より発売されたシミュレーションのシリーズ物、『ファイアーエムブレム』。シミュレーションゲームやRPGを好む人達の中では、それなりに名が通っていて、現在でも開発され続けているタイトルである。『ファイアーエムブレム』の特徴を一言で伝えようとするなら、どう語るべきか。ひとまず「個人に焦点を当てた戦争ゲーム」とでも言っておきたい。個人的な印象としては、シミュレーションという分野においてこうした特徴を世に広めたのは、この作品が負ったところが大きいと思う。
本稿では『ファイアーエムブレム』の「戦争と個人のイメージを演出するシステム」を批評していく。そこからプレイヤーが勝つべき軍隊(自軍)と消えるべき軍隊(敵軍)という価値付けを納得していく道筋について考察を加える。そして最後に、プレイヤーの熱中は何に対する熱中であるのかを考えたい。
まずは作品タイトルの「ファイアーエムブレム」について少し書く。直訳すれば「炎の紋章」となるが、これは必ず物語中で権威ある血筋の者(王族の姫など)から主人公に継承されるものである。紋章の意義は「戦乱の時代に終わりを告げさせる者」として認定されるところにある。紋章の継承とともに、主人公は一軍隊の統率者としてだけではなく、戦争を終わらせる使命を担ってその後の動向を形作ることとなる。
だが『ファイアーエムブレム』は戦争をモデルにしたシミュレーションゲームである。ゆえにプレイヤーは戦争を「勝ち抜く」ことを前提に遊んでいる。いかにして敵軍を倒し、自軍の損害を最小限にとどめるか。プレイヤーはプレイ時間のほとんどをこうした思考の繰り返しで過ごしていると思われる。つまり勝つための思考をし、戦闘行為を執り行っている点では自軍も敵軍も大差ないのだ。ではプレイヤーは敵と味方、双方の違いをどう認識するのか。まずは「自軍」とは何か考えてみたい。
僕はこの作品をプレイする時、自軍の兵の生存にこの上なく執着する。誰か一人でも死んでしまったならば、やりなおす。誰一人として死なせたくないのだ。それは「資源か脅威」という敵の認識との差異だけではなく、このゲームにおける最大の特徴、「死んだ者は帰ってこない(例外あり)」というシステムに由来している。この設定により、自軍の兵の死は以下のようなデメリットをプレイヤーに生じさせることとなる。
上記二項目を補足する。1は「これまで育ててきた、一緒に戦ってきた」という戦友としての魅力、それとその過程で成長してきた戦力としての魅力。こうした魅力を同時に喪ってしまうことを示す。2は、ある特定の仲間が話しかけ、説得することで仲間となるキャラクターが物語上何度も登場する仕掛けによるものだ。当然「特定の仲間」が死亡していれば、そのキャラクターは仲間とはならない。ひどい場合、敵として殺害する以外にない。
こうした特徴から、プレイヤーは自軍の兵士一人一人を大事に扱うよう仕向けられているといえる(脚注1)。つまり小隊や師団といった集団のレベルで自軍を意識させない、「個人」の集合体として捉えさせるレトリックとみなせる。この前提を元に、続いて自軍と敵軍の比較に移っていく。
軍隊それぞれに対する異なるラベリング(レッテルを貼ることの意)の不自然さを打ち消すような、自軍と敵軍の差異はどこに認められるのか。前項では自軍の「個人」に対するこだわりを書き出してみた。ここではさらに自軍と敵軍のイメージの違いを浮き彫りにし、「個人」という認識と「戦争」における一兵士の認識について考えたい。
まず筆頭に上げるべきトピックは、「顔」グラフィックの有無だろう。通常の画面上では、自軍敵軍共にどんな種類の装備をした兵隊かを示す「駒」でしかない一人一人のキャラクターだが、個別の能力を見る画面に大きな違いがある。「顔」グラフィックの有無である。まず、「顔」を持つキャラクターの特徴を挙げる。
これらはまさに集団ではなく「個人」に帰属するアイデンティティを象徴する性質である。続いて、上記の特徴を持つキャラクターの類型を示すとこうなる。
これらによって、プレイヤーは厳然とキャラクターの区別を行うことができるようになる。すなわち「人間か駒か(脚注2)」の区別である。なぜ「平和の使者」「戦乱の主体」という二分割にプレイヤーが馴染めるのか、という当面の問いはこれで大体の見通しがつく。魔物と同一で「資源か脅威」とみなされうる、顔もわからぬ駒たる敵兵、一方で愛すべき戦友として認識される、死ねば帰らぬ自軍の兵。後者は命を守るべきイメージとしての「人間」の特徴、「個人」の条件を示していることにより、「平和の使者」たる極めて人間的な善悪の概念を持った集団として意識される。そして前者は同じ兵であるにも関わらず、悪の軍団の駒、道具という「非人間的な災厄」となりうる。いうなれば、「炎の紋章」はその認識にお墨付きを与えるトピックなのだ。
しかし、この答えだけでは批評として不十分だろう。そうした区別があることはあくまで前提であり、その上で行われるプレイにどのような性質を見てとることができるか。前提の納得からプレイへの熱中にどのような関係が見られるのか。最後にこの問いに対する僕なりの結論を記す。
僕はこのゲームをしていて、駒たる顔のないキャラクターを殺すことに何の抵抗も感じない。『ドラゴンクエスト』の批評で記したとおり、駒たる敵兵は「資源か脅威」でしかない、と認識しているからだ。顔を持つ敵将もまた多くは金と権力の亡者としてのセリフを吐き、自軍の正当性を高めてくれたりもする(脚注3)。
だがすでに述べたように、僕は同時に自軍の兵は全員生存させる、仲間にできる者は絶対に入れる、失敗した時はやりなおす。こうした目標を決して崩すことなくゲームクリアーまでたどり着こうとするのだ。目標を崩すくらいなら、プレイを辞めるくらい、重要な目標としてイメージしていたのだった。
こうした「完全な勝利の達成」に異常なまでにこだわるプレイヤーは、このゲームにおいてさほど珍しい存在ではないだろう。現実に苦難を共にしてきた他者が自分のせいで殺された、という結果を甘んじて受け入れられる人はそういないはずだからだ。リセット、やり直しの効くゲームにおいてはなおさらである。生き残った誰もが平和なラストシーンを迎えられるよう、何度でもやり直す。それは「個人」の生存への渇望だ。こうした熱意を発生させるところに、『ファイアーエムブレム』の作品としての凄味があると僕は考える。この点について深く言及するには、ここからさらにシナリオの読解を進める必要があると思うが、ここではその前提にこだわってみた。
概説的に語ってきたので、この作品における善悪描写がいささか単純に思える読者もいるかもしれない。だが実際のところはそんなにも単純ではない。ここで言及したのは、あくまで自軍と敵軍のイメージ差であって、善悪描写の主軸であるシナリオには立ち入っていないのだから。この点については別の機会にいずれまた書くかもしれない。