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Junkieta.netLog → Critique, 2004-6-17

ドラゴンクエスト5・6-敵を仲間に

  1. はじめに
  2. ドラクエ5の「敵→仲間」システム
  3. ドラクエ6での違和感

はじめに

『ドラゴンクエスト』というゲームの名を聞いたことのない人はほとんどいないだろう。FFシリーズと並んで国民的RPGなどと呼ばれた名作シリーズである。本稿ではこのドラクエシリーズの『5』と『6』に共通した、「敵を仲間にするシステム」についての批評を行いたいと思う。

『5』はシリーズにおいて初めてこのシステムを採用した作品だった(2004年になってリメイク版がPS2で発売された)。主人公は「魔物使い」の素質を開花させ、以後旅の道程で遭遇する魔物達に愛情を与え、味方に引き入れるということができるようになる。僕が注目したいのは、この設定が適用されてからプレイヤーの姿勢が劇的に変化しうることについだ。そのシステムの概要とドラクエでの特徴、さらに『5』と『6』の相違について考察したい。

ドラクエ5の「敵→仲間」システム

多くのゲームにおいて、プレイヤーにとって敵とは「資源か脅威」である。しかしこのシステムによって「敵=未来の仲間」という視点が誕生する。それでプレイヤーは「こいつを仲間にしたい」という願望を持って戦闘に臨むことが可能になるのだ。ここまでは同様のシステムを持ったゲームに共通した要素といえる。『ドラクエ5』におけるこのシステムでは、仲間の種族毎に次のような設定を見てとれる。

  1. 成長限界(最大LV)の違い
  2. グラフィックの違い
  3. 能力・特性の違い
  4. 名前の違い

各特徴について補足しておく。1は能力が上昇する回数の違いである。ある仲間が三十回の能力アップのチャンスがあるのに対し、別の種族は十回しかない、といったものだ。2は戦闘時に見られる敵のグラフィック、そして移動時に見られる仲間の姿を指す。ちなみに戦闘時も移動時も、グラフィックは種族毎に用意されている。3は「熱に強い」とか「物理的な攻撃に弱い」、また身につけられる武器や防具の違いなど。最後の4は、種族名をもじった愛称が一匹一匹につけられていることを示している(例えば「種族名スライム」→「仲間名スラぼう」といったもの)。また上には挙げなかったが、人間の仲間は成長限界が全て共通している点で異なっている。

これらの特徴はみな、「仲間の個性の演出」という目的に即したものとして見ることができる。つまり「仲間の魔物と敵の魔物の差異」、「仲間同士の差異」、この二つを浮かび上がらせ、仲間一匹一匹を異なる個性を持つキャラクターとして認識させるための重要なファクターなのだ。こうして「長く付き合えるけれどもなかなか強くなってくれないヤツ」「可愛いのに育てても使えないヤツ」「とても強いけれどすぐに成長をやめてしまうヤツ」など、様々な個体差をプレイヤーは感じることとなる。こうした差異に夢中になり、仲間にしてみたい一心で、何時間でも敵を探し求めるプレイヤーが生まれることになるのではないか。

ドラクエ5』はどのような旅の一行を編成するかを友人と話すだけでも盛り上がれたゲームだった。「とにかく強さを求める」「かっこいいヤツを集める」「人と違う仲間を使いたい」など、仲間の差異が演出されたことによって、実に多様なプレイスタイルを選び取れることがその要因だと感じられる。

6での違和感

さてドラクエの「敵→仲間」システムについてこれまで述べてきたわけだが、ここからは『5』で生み出されたこのシステムが、『6』ではどのような感覚の違いを感じさせるか考えたい。

まず『6』においては、仲間の扱いが異なっている。最大のポイントは、人間の仲間も魔物の仲間もカスタマイズの自由度が飛躍的に増加した点だろう。これは仲間の職業を選択できるシステムの導入によるものだ。職業によって上昇しやすい・しにくい能力、習得できる技・できない技に違いがあり、プレイヤーは仲間の職業を操作することで好きな能力を好きな仲間に身に付けさせられる、という仕組みだ。

このシステムは一見、さらに個性的になった仲間との旅が楽しめるような印象を持つ。しかし僕のプレイした感想は逆で、『6』では仲間が非常に「没個性的」に思えてしまったのだ。それは以下の点による。

  1. 仲間の成長限界が全て共通している(全員最大LV99まで上げられる)
  2. 能力・特性をプレイヤーが操作できる
  3. 名前を変更できる

こうした特徴から僕が言いたいのは、仲間が「プレイヤーの思うとおりにできるもの」になってしまっていることだ。前述の『5』の特徴として書いたものと照らし合わせてみてほしい。『5』の特徴は「仲間の個体差」を演出していると述べたが、これらは実は読み方次第でプレイヤーの自由の「制限」とも言えるものだ。つまりプレイヤーが操作できないところに「個性」を感じていたとも考えられる。というのも、プレイヤーの計画次第で「どんな能力も得られる」「どんな名前にもできる」「どこまでも強くできる」…それはもともとの個性、プレイヤーの管理下にない仲間達自身の発する個性はなくなってしまったのにも等しいのではないか。

『5』には個体差の激しい仲間達とバランスをとりながら旅を続ける楽しさがあった。それが『6』になると、個体差はプレイヤー自身が作り出すものとなってしまう。それによって、僕はどこか仲間への愛着が空っぽになってしまった気がしたのだった。

資源か脅威

「敵」は「資源か脅威」としてプレイヤーの目に映る。「資源」とは、倒すことによって「資金や戦闘の経験(能力成長の条件)」を与えてくれるものとしての敵。「脅威」とは、仲間や主人公を痛めつけ「敗北に陥れようとする」恐怖としての敵である。「資源」の有効性と「脅威」の危険性の中身については、個々のゲームのシステムにおいて異なってくる。この二つの関係を取り上げて「ゲームバランスがいい・悪い」という論評も多数行われている。

多くのゲームにおいて、「敵」とはこの両義性を有した存在である。例えば「レベル上げ」という敵を狩って能力を高めたいという意味を有する言葉は「資源」として敵を見る習慣、「ボス・ザコ」という敵の強さを示す言葉は「脅威」として敵を見る習慣からそれぞれ来ていると考えられる。これらの言葉はゲームにおける「敵」を語る時、非常に多用されている。

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published:2004-6-17