スラッシュドット ジャパン | 神奈川県が残虐ゲームソフトを全国初の条例規制へより。以下は元ネタ読売新聞の引用。
30日の県児童福祉審議会に諮問する。指定されれば、6月にも県内での18歳未満への販売禁止と、店頭での一般ソフトとの区分陳列が義務づけられ、悪質な違反者には30万円以下の罰金が科せられる。同県によると、条例で残虐ゲームソフトを有害図書類として規制するのは全国で初めてという。
前述のスラッシュドットのスレは、すでにこうした話題に慣れきっているようなダレた空気。そんな中で少し発展した話もある。以前はてなの質問であった優良図書に推薦したいビデオゲームという話に近いけど、ゲームで読書感想文を書いてもいいですか?
というコメント以下の話は広がりがあっていい感じ。
「感想文」を受け取れる体勢が確立されれば、それが教育利用の一番現実的な道だと思う。ゲームソフトそのものを教育的にっていうのは、文学の児童文学化みたいな空気もあるわけだし。
以下のコメントでは「じゃあ読書感想文って何よ」という話が出ている。
私が先生だとして、生徒がゲームの感想文を書いてきたとしたら、まずはそれが「読書感想文に期待されている教育効果」を満たすかどうかを考えます。まあかなり眉唾ですが、「自己内省による人間性の向上」、「読むこと、書くことによる日本語能力の向上」あたりでしょうか。
たしか読書感想文ってのは、書かせるたびに目的はけっこう異なってたりするはず。読むこと、書くことによる日本語能力の向上
は国語の授業の一環であれば成績評価の観点からそうなるし、特定教科の成績と関連しない夏休みの宿題のようなものであれば前者の人間性云々が主な目的であったりもする。あるいは単なる慣例として決まった時期に書かせる(される)ものであったりもする。要はその教員なり学校なりによるその時々の定義に基づくことになる。
さて、人間性云々の場合、対象はもはやなんでもいい(実際にはモラルというか文化というかそういうヤツがあってだね君、その色々と、あの、問題があるわけだよ君、ということになる)。上のコメントを書いた人も言っているが、本来的には対象を通じてどのような内省を行ったかという点が重要だ。ならば二次創作や批評・レビューがこれほどあるメディアで書けないわけがない。
でもどんなものが出来るだろうか。思い出のファミコンと似た雰囲気になるのか。ちょっと俺が教員だったら実験的に取り入れてみたいところだ(ゲームしない生徒と親から文句出るだろうが)。
ちなみにはてなダイアリーのキーワードとして書かれた読書感想文の内容は少し笑けた。
連れが実家に帰っているので、いつもなら二人分入れている珈琲豆を目分量で一人前にして挽き、70度程度の湯を用意。温めておいたサーバーに挽いた粉をセットして、中心に湯を垂らす。全体が湿りきらないくらいで一度止め、蒸れるのを待つ。
表面に泡がなくなり、再び中心からゆっくりと今度は輪を描くように湯を垂らしていく。きちんと中心に粉のふくらみが残るよう、慎重に入れる。ドリッパーの縁の少し手前でやめ、抽出液が落ちるのを眺める。再度繰り返して、ドリッパーをはずす。
カップに残りの湯を移して軽くふり、カップ全体に温める。空にして、抽出したものをカップに。
一目見て、ただの色水を作ってしまったのがわかった。豆の量が少ないのに、入れた湯の量が二人前だった。薄くちゃ煙草も合いやしない。
やれやれ。
ゲームデザインの学術的研究が求められている割に日本で進まない、という話。これはデザインに限ったことではない。数々の資料的価値を有するビデオゲーム関連書籍・雑誌は絶版、プレミア化してしまったものが多い。大学図書館でも蔵書として補完している場所は全国でも数えるほど。それも網羅的とは言いがたい量だ。
学術研究の際、たいていの場合まず最初に「先行研究の洗い出し」作業がある。その際ビデオゲームは歴史の浅さもあって先行研究の絶対数が少なく、同時に(扱う領域によっても多少の差異はあるにしても)あたりをつけた資料の入手自体が困難だ。特に文系(という言い回しもどうかとは思うが)研究の基礎になりうる内容、実際に頻繁に引用される電視遊戯時代―テレビゲームの現在やゲームの大學が既に絶版であることは大打撃だろう。
また比較的研究の進んでいると見られる海外のめぼしい論文の多くは翻訳本・洋書共に5000円以上するのはざらで、かなり高価だ。そもそも一次資料たるゲームソフト・ゲームハード自体も、過去のものは消えるかプレミア化してしまっている(この点で言うと、任天堂の「レボリューション」で語られている互換性は興味深い)。
研究の体系化を考えるなら、リソースにたどりつくことが物理的に困難であることも問題視されてしかるべきだと思う。その点でGAPがこの「基礎的資料の量的な不足」について触れていないのが不思議だ。僕などは沢月耀さん、hiyokoyaさん、すいづたくみさんらの参考文献リストがなければ、資料の存在そのものすらろくに気付けなかったかもしれない。
ただし状況の閉塞感があるにしても、webで多くの方々がビデオゲームにまつわる数々のデータ・考察を積み上げようとしているのが僕には励みだった。僕とて力量なんてろくにありもしないだろうが、できることを自分なりに考えたいと思っている。
目下、ビデオゲーム研究の課題は山ほどあるように思う。その中でも知の共有化のための前提が整えられる必要性を強く感じる最近だ(卒論制作を開始した個人的な都合もあるし…)。
書店ではほとんど第2集しかなく、なかなか目にすることの出来なかった本書をどうにか入手。期待以上に面白い。第2集ともども、ゲームという共通項しかない雑多な人々との対話が、バラエティにあふれつつ見事にテンポの良い対談にまとめられている。話の広がりが素直に心地よさを感じさせてくれる。
たとえば制作者サイドとの対談は参考になるもの、反論したいもの両方含めて考えさせてくれる。また編集部女性プレイヤーのくぐってきた社会の洗礼やら、餅月あんこさんの女の子プレイヤーに関する考えとか、随所に見所がある。
きわめて個人的な興味から言うと、前者のクリエイターの業界話よりはむしろ後者のようなゲームと自分、自分の生活と社会の絡まり合いを垣間見せる「プレイヤーのよもやま話」が本書の魅力の中心に思える。しかし中でも特にプッシュしておきたいのは、小学生二名の会話。
ゆたか『でもおれ、最近あんまりゲームやってないんだよなぁ。』
たかひで『人間だったら、いっぱいゲームやるはずだぞ。』
すさまじい。今の僕はこんなセリフ咄嗟に出せない。でも言ってみたい。
2005年05月の戯言 - 駄的HTML改善計画にて学生がつくる!!中小企業ホームページグランプリ多摩を知った。残念ながら僕も居住地の関係で参加資格なし。
それで改めて考えると、(ブログ・ランキングとかはおいとくとして)Webデザインやらなにやらのコンテスト・グランプリってあまりない。あっても情報を拾うことだけで一苦労だったりする。ざっとググってみても、Flashとか動画関連以外は既に終了したものばかり。次があるかも不明。
コンテストってのは継続的であることで趣旨を普及させていく。みんなのウェブで以前やってたアクセシブルサイト・コンテストなんか、小規模でも毎年定期的にやっていけば「アクセシビリティ」という単語の流行が過ぎても、なお残る関心を生み出せるかもしれない。だが一発限りのイベントでは、わざわざその手の単語をググるような人しかそこで生み出された成果に到達しない。
褒められたり報酬があるものに目が向くのはごく自然な話(それだけに向くとは思わないが)。「アクセシビリティ」に限らず、あるキーワードが俗世間的な関心から引き剥がされると、一部の「えらい人」や「おかたい人」の話になっていく気がするなあ。
Wired News - ゲームに熱中しすぎて現実との区別が曖昧に - : Hotwiredより。いくつかのゲームプレイを例にとり、ゲーム内での感覚が「現実」に持ち込まれる様子についての長文。気になった箇所を引用すると共に若干のコメントを。
「車でベニス大通りを走っていたときのことだ」と夫のダンさんは振り返る。「突然、妻がハンドルに手を伸ばしてきて、一瞬だがハンドルを右に切ろうとした……。(それから)手を離して、じっと窓の外を見ていたかと思うと、呆然としたような顔で私を見てこう言ったんだ。『ごめんなさい。さっき通り過ぎた郵便受けを拾えたら、と思ったの』」
上記は『塊魂』にハマっていたという奥さんの様子として描かれたもので、その後に現実生活での意識とゲーム中のそれとが混乱してしまうという経験は、筋金入りのゲーム愛好者の間ではよくある出来事なのだ
と記されている。
僕は20時間くらいぶっ続けで塊魂をプレイしたこともあるが、こうしたことは未体験だ。そんなにこれが珍しくない現象なのだろうか。『塊魂』のプレイ後に「あれ巻き込めたなぁ」などという会話はよくしたが、実際に車のハンドルを切ろうとしたことなどない。誇張なのか本当の話なのか判断しようもないが、これが「よくあること」だとしたらすさまじい。
しかしこれは現実との区別が曖昧に
なっているというよりも、「現実」をゲームにすり替えていると考えた方がわかりやすい。ゲームプレイに「現実」の感覚を持ち込むのはナンセンスだ、という話があってもいい気がするが。
ヴァーチャル・リアリティと呼ばれるものと、「現実」というものを二項対立式に捉える話はわりと受け入れられている認識。これに「じゃあリアルと呼べるものはなんなのよ」という話もあるが、そうするとキリのない泥沼へ入るのも目に見えている。しかし思わずにはいられないのは、ゲームに侵食されている「現実」って本当にもとからあったものなんだろうか、ということ。デカルトさんの「我思う、ゆえに我あり」ではないが、「侵食」されたり「区別」されたりしているところの「現実」というのは、いつからそこにあって、どういう姿をしていて、ってのがよくわからない。ゲームの世界というものが、プレイしていない人にとっては「わけのわからもの」でしかないように、「現実」というものも決して安易な概念ではないと思うのだけれど。
ここまで書いて思ったが、むしろ「ゲーム」の登場によって「現実」が安易な概念になっていった部分があるのかも。「現実」と二項対立で語られるものっていったらイデオロギーだとか理想だとか無意識だとか様々だけれど、いずれも学問的なアプローチがしつこくされている概念だった気が。
今「ゲーム」が安易に二項対立で語られているなら、「現実」の理解が安易であることと表裏一体なのではなかろか。