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2006年06月の記事

今ここにいること 2006-06-02T21:52

父の容態が割とシビア。危篤とかではないが、本人及び介護者の状態とそれに付随する精神的ダメージのせいで、今後の見通しがうまく立てられない感じのようだ。でも僕がちょっとやそっと帰っても、根本的な問題(今後の生活)に対しては何の役にも立てやしないこともわかっている。今の僕は象牙の塔に居残った、京都在住のしがない大学院生で、どうしようもなく無力だ。

覚悟していた話ではある。家を出る高校までは予定をカットすれば介護者として動けたし、どうでもいいおしゃべりもできた。生活の場として実家に寄生していたわけだから、予定をキャンセル=介護可能な状態となった。でも今それは、予定を作って初めて可能になることだ。片道鈍行電車で10時間、往復学割切符で10000円を簡単にover。前みたいに「じゃあ今日はガッコさぼって付き合うわ」とはできない。ガッコをぷらぷらさぼるだけじゃ、それこそ休学でもしなけりゃ満足に付き合えもしない。

でも僕は勉強するという時間と空間と地位を22になってもまだ確保する、と決めた上で残っている。もういい歳なのにスポンサーの母には相応の負担をかけているし、仕事始めたてで不安を抱えやすい相方とも住居が大きく離れてしまったし、僕自身も下手すればフリーターやるよりさらに選択肢は狭くなるし、特殊な位置に立って物事を語らなきゃいけない場面だって出てくるかもしれない(それと僕の価値観が葛藤を生むとしても)。それでもとにかくやると決めて、今、僕はここにいる。

それが最良の選択だったかはわからない。でも他のあらゆる選択を否定した僕がいて、それを認めてくれた父、母、相方がいて、似た場所同じ場所を選んだ友人、選ばなかった友人がいて、そこで受け入れてくれる人と場があって、そういう全ての関わり、つながりが、僕が物理的にも時間的にも今ここにいることの意味。「俺は20代で死ぬだろうな」とか「最後はその辺の川原で野垂れ死に」と冗談抜きで言えたときとは、僕の目にうつるものが、責任を果たしたい対象の広さが違う。

父と煙草でもふかしながら、どうでもいい話も真剣な話もしたい。でもそれもただ日々を過ごすだけで、待っているだけで得られるものではもはやない。きっとこの先何度でも、そうやって何かを少しずつ切り捨てていると実感せざるをえない場面はあるんだろう。それでも僕は、後悔していないと言いつづけなくてはならない。

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updated:2006-06-02