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2006年04月の記事

死のゲームデザイン 2006-04-27T18:41

『任天堂公式ガイドブック ファイアーエムブレム 紋章の謎』には、加賀昭三・寺崎啓祐によるQ&Aが掲載されている。その最後のページにおいて、以下の記述があったことを思い出した。

Q.なぜ途中セーブができないのか?
A.安易にリセットボタンを押してほしくなかったから。
(中略)FEでは、「人が死ぬ」ということをシステム上でも特別なこととして考えています。出会った仲間とともに最後まで戦いぬこう、しかし数多くの戦闘の中で息絶える仲間もいるかもしれない。その仲間の死はシミュレーションの駒がひとつ消えるというものではなく、生命が途絶える死であり、痛いものなのだ。だからだれそれが死んじゃったからはいリセットね、という安直さには走りたくなかったんです。

たとえばGoogleで「ファイアーエムブレム 死 リセット」とでも検索してみると多くの批評・レビューが羅列されるが、「あえてリセットをしない」「膨大な量のリセットを繰り返す」のニパターンのプレイスタイルが見えてくる。しかしリセットに対する態度が両極端でありながら、ほとんどの人が死とリセットの「痛さ」に言及し、同時にその「痛さ」を高く評価している。

僕は先ほどのニパターンから言うと後者のスタイルに属するため、Q&Aで述べられている期待とは異なるプレイとなっている。だが「死を避けられるなら努力もそれに割いた時間も捨てる」「自分のミスから生まれた死としてその苦味を受け入れる」など態度は違っても、狙いとされている「仲間の死の痛さ」は多くのプレイヤーの脳裏に焼きついている。

キャラクターの一人一人の露骨なまでに数値化・可視化された能力値は、単なる運まかせの殺し合いを許容せず、「考えろ」と促す。また「説得」のシステムはたとえ敵でも「顔を持つ個人」は想像力を働かせてプレイすれば殺さずに済むかもしれないという可能性を常に与える。ファイアーエムブレムという作品は、その死に対する思想がゲームデザインに一貫性を感じさせるものとしたのだ、と僕は思う。

RGN一発目に対する手遅れ的感想 2006-04-13T21:00

昨日書き上げたのに公開するのをすっかり忘れてて、しかも今日になったらなんかhiyokoyaさんがすでに言及者一覧のようなものを書いてしまっていて、ものすっげぇ手遅れ感漂うRGNレポート。でもってそこの一覧を眺めていると、似たような指摘している人もいたりして、ますます公開する意義がわからなくなってきたけど、せっかく書いたものをハードディスクに埋もれさせるのも哀しいからいまさらながらに掲載してみる。以下、その文章。

RGNの感想

(大学院生となったため)新学期開始直後でばたばたしていたのだが、RGN(コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)に参加してきたレポートを。この研究会のメインとなったのはhiyokoyaさんによる死の表現をめぐってという発表。概要は上記RGNのサイトにて公開されていて、詳細もいずれ議事録が出るとのこと。

ちなみにhiyokoyaさんの発表は、「ゲームでは簡単に死んだり生き返ったりしてばっかでよろしくねぇ」→「いやいやたしかにそういう面もあるが、生き死にについてゲームだからこそ考えさせてくれる形だってありうるでしょ」という趣旨だったと僕は解釈している。このテーマそのものはけっこう面白い、ゲームの表現論を展開する上での一つの方向として興味を持てる。ただ急ぎの発表だったという点もあってか、分析対象がコンシューマRPGに偏ってるとか、死の定義が不十分なんじゃねえかとか、わりとあちこちから突っ込みが入っていた。時間不足で発言はできなかったけど、僕が違和感を感じた点を一応以下に述べておく。

FF』における「しぼう/せんとうふのう」の表記及びその状態に付随するグラフィックス、「あと何回死んでも平気か」を示すマリオの残り人数の増減などは、僕がよく使う枠組みで言わせてもらうと、プレイヤーの持つゲーム中の「資源」がどんな状態かを示すメーターのようなものでしかない。この場合の「死」は単に「資源が利用できない」、「動かせない」ことを示すためのもので、「死」そのものではなくプレイヤーの資源を可視化するところにその意義がある比喩だ。当然、この文脈では「復活」もまた「比喩」に過ぎない。これを「戦闘と(本来の意味での)死が分離している=リアリティのない死の表現」といっても、そりゃそうだろうとしかならない。

このような描写そのものは「死のリアリティ」を追求した制作者・設計者の(思想の)「表現」とは言いがたく、むしろただ「表記」とした方が意味が通じる。ただhiyokoyaさんの提示したいくつかの「ゲームならではの死の表現の可能性を持った作品」や、「死の固有性を描こうとしているように思える作品」からは、むしろこれまでゲームにおいて(ゲームシステム面からの要請に応じて)用いられてきた比喩、「お約束」に対し意図的な意味の付加や組み換えを行うことで、ゲームメディア(と書くべきかは疑問もあるけど)特有の効果を持ちうるのかもなぁ、とか妄想した。

これは個人的な印象というか願望だけど、hiyokoyaさんには残酷描写なんかを問題視する影響論を無視、自分のもっともインパクトを受けた「ゲームにおける死」を生き生きと描写してみせてほしかった(Critique of Gamesだし)と思う。その点で、今回分析のベースとなっていた「固有的・複数的」といった死の分類は、リアリズム以外の観点を入れにくい枠組みだった気がする。「リセット可能な死」をそれだけで「低レベルさの漂う死の表現」として扱わざるをえなくなってしまうし、それはたぶんすごくもったいない。僕のファイアーエムブレム論なんかでも、「リセット可能であるがゆえに」命が失われない形でのプレイを模索し続けられる・はまりこめる、という書き方をしたけど、やり直しがきくということが必ずしも表現上マイナス要素になるとは思えないのだ。

ついでだけれど、一応悪影響論の系譜をたどって言説分析のよーなものをやってた身として補足。かつて朝日新聞紙上にて掲載された(研究会でもたしか名が出た)藤原新也のドラゴンクエスト論評がある。これはドラクエというもんの中身をいい加減な理解のまま勝手に少年事件と結び付けやがってばかやろー的な扱いをされることが多いわけだが、僕の知る限りもっともすばやくこの論評に対して真っ向から反論したのが今回の研究会で槍玉的な扱いを受けかねなかった大塚英志だった。彼は藤原の結びつけがドラクエを全然理解しないまま行ったものだと指摘しつつ、その発想が「現実と虚構とを取り違えた危険な子ども」というイメージを強く喚起してしまっていると述べた。そんな風に見られたら、子どもはテレビゲームじゃなくてこの「現実」の世界の中でこそ「危なくない子」をRPG、役割演技ゲームし続けなくてはならなくなってしまうだろーが、と。

そんなところから大塚英志って論客に対し僕は、「ゲーム擁護論のような立ち位置とは違うところから、ゲームも含めた状況を冷静に判断して意見を(適切なタイミングで)述べていた稀有な人材」と思ってるところがある。その大塚に対し、「どーせろくにやっちゃいねぇヤツの言うことだろ」といったある種の侮蔑的な空気とともに「じゃああのゲームはどうなんだよ、このゲームはどうなんだよ」などと会場から場当たり的にも思える批判が湧き出したのはなんかなー、と感じた(大塚英志の立ち位置については僕とは別の意味で主催の東氏が議論の修正を図っていたけど)。

ただ、こういう会を始めてくれたのは素直に嬉しい。ゲームについてあれこれもの申す色んな立場の人と出会えて、自分の立ち位置を確認する上でも貴重な機会となったと思っている。距離の関係もあって参加頻度をどの程度にできるかはわからないけど、応援していきたい。

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updated:2006-04-27