『塊魂』はnamcoから今年三月に発売されたアクションゲームである。大コスモ(大宇宙)の王子である主人公の父親(つまり王様)が酔った勢いでことごとく破壊してしまった夜空の星を作り直すため、地球に降りてモノを集め、星にする塊を作らねばならない。これが『塊魂』で王子に課せられた課題であり、プレイヤーの目的となる。王子は固まりを転がし、次々にモノを巻き込む。大きな塊ができていくにつれ、初めは進路を妨害する障害物だったモノも、気付けば巻き込めるようになっている。制限時間内に塊が一定のサイズを超えたなら、めでたく星として打ち上げられることになるのだ。
本稿ではまず『塊魂』の世界の姿を描き、これまでの論考通り「資源か脅威」という解釈の図式を用いつつ、『塊魂』のプレイからもたらされる快感を探る。その上で、これらの図式を包含しきった意味づけについて考察していく。
『塊魂』の舞台は地球、そして描かれている場所のモデルは日本だ。そしてステージに描かれたグラフィックは日常生活の中で目にするものが山盛りである。家に入れば画鋲に消しゴム、コタツにテレビ、外に出ればポストやガードレールに電柱、警察署の前には警官、牧場には牛、海にはフェリーやタンカー、さらにはビル、島、雲…挙げ出せばキリがないほどに雑多で多彩なモノがフィールド上に配置されている(脚注1)。それらのほぼ全てがサイズ次第で巻き込むことができる。そしてまたサイズ次第で、見えてくるものが大きく様変わりしていくのだ。
プレイヤーは王子を操作し、塊に巻き込めるものを探しつつ、この雑多な世界を徘徊することになる。次にプレイヤーの目に映るこの世界の変化についてもう少し詳しく書き出してみることにする。
塊は巻き込むほどに大きくなる。だが大きくなるのは塊だけではない。プレイヤーの目に映る世界、そして踏み込める世界もまた同時に広がっていくのである。最初はねずみが巨大な化け物(脅威)に見えていたというのに、気付けばビルすらも巻き込める矮小なモノ(資源)に切り替わっていく。バリケードに弾かれて覗くことのかなわなかった未知の世界も、バリケードなど踏み越え巻き込み、飛び込んでいける時が来る。「脅威」を避け、「資源」を吸収するほど、かつての「脅威」は「資源」と化していくのだ。
RPG等に代表される「成長システム」に近いが、『塊魂』が他作品と異なっているのは、この「成長」を「見ているだけでわかる変化」として表現していることだ。体力、攻撃力、守備力…といった数多くのパラメータではなく、見た目だけで「成長」の度合いがわかるし、周りのモノが「脅威」なのか「資源」なのかの区別も瞬時に行うことになる。最初はぶつかれば弾き飛ばされてしまう「脅威」でも、「成長」によって「資源」となっていくのだ。
雑多で多彩な世界も、「塊を大きくする」という目的のもとで「資源」と「脅威」に振り分けられ、大きくする過程の中で過去の「脅威」も「資源」へとグラフィカルに変化していく。『バイオハザード』の論考の際、「資源と脅威の分離」について触れた。一方『塊魂』は「脅威から資源への螺旋」とでも言うべきシステムだ。「全てが未来の資源」という言い方もできる。どちらの作品も特定の大目的によって既存の価値観もモラルも排除し、世界を統一された視点で眺めさせる点では類似している。それによって『バイオハザード』は「恐怖」と「生き延びる快感」を生んだ。では『塊魂』は何を生むのか?
「脅威」も「資源」に変えつつ、全てを塊に吸収していく過程は、「成長」してより広い視野を持って世界を眺めなおすこととセットで進んでいく。この「塊」を「自己」と読み替えてみるとどうだろうか。過去の障害は、より広い視野で見ることができた時には「たいしたことではなかった」、「いい思い出になった」というふうに、「脅威」が矮小化されたり「資源」として捉えられたりする。そして『塊魂』ではこのサイクルが極めてスピーディーに繰り返され、そのたびに広がる視界と小さくなった「脅威」が「成長」の実感を与えてくれるのだ。
これまでの考察は塊を大きくしていくことに焦点を当ててきた。しかしもう一つ重要な論点がある。それは「全てを一つの塊にすること」についてだ。これは「世界を一つにして新たな世界を作る」こと、または「他者と一緒になった、また共にいる自己を見出すこと」と読み替えられる。
少し見方を変えれば塊は、人々や建造物、自然を闇雲に巻き込む大災害でもある。特に生物はみな逃げ惑うよう設定されていて、その姿は少なくとも巻き込まれることを望んでいるようには見えない。
それでも可哀想とも思わず躊躇もせず、そうしたモノ達も巻き込んでいく。これは『ファイアーエムブレム』の考察で述べた戦争を納得させるレトリックのようなものとはまた別の物であることに注目したい。巻き込まれたモノは死んだり壊れたりするのではない。共に「世界を一つにしていく」モノとなるのだ。それは同じ世界、同じ目的、同じ行動に「巻き込み」、一つの「塊」となることだと言えるだろう。
「敵」を「資源か脅威」と見てきたこれまでの図式。そこから導かれる「成長の実感」という快感に対し、この視点は敵味方なる概念を超えてあるひとつの意味づけをする。「一つになろうとすること」。これが『塊魂』の根底に流れるテーマ、「塊」に与えられた「魂」なのだろう。こうした視点を深く意識していてもしていなくても、プレイ中の軽快なBGM(脚注2)、最後に迎えるエンディングの仕掛けと王様の短いコメント、そうしてちりばめられた「魂」の片鱗がプレイヤーに心地よさを与えてくれる。ある塊が巻き込み、成長し、全てが一つになった世界はどんなものなのだろうか。
醒めたくない夢を見させてくれた、成長を続ける「塊」と揺さぶられる「魂」の物語に拍手を送り、論を終える。
ゴールは果てしなく遠かった
進む事をやめなかった
いつまでも転がし続けた
人として大きく成長した
色んな事に気がついた
みんながひとつになった
笑顔は街に溢れ
くだらない悪意が影をひそめた
BGMの歌詞はどれもこうした「塊」の「魂」を表現している。そしてどれもが踊りたくなるような、どこかおちゃらけたような軽快さを携えているのだ。