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2005年12月の記事

GAPIDに恒久性を! 2005-12-22T15:09

ちなみにここでいうところのGAP服のお店のGAPではないGAPのことであるからして注意。で、そのGAPはせっかく任天堂と提携して素晴らしい成果を出しているのだから、もっと踏み込んで各ゲームタイトルにISBNのような恒久性のあるIDを生み出してみてはくれないだろうか、と節に願っている。便宜的に(としか思えない形で)ふられているGAPIDではなく、RFC登録も目指せるくらいのモノを。

Webでもどこでももっと自由にゲームを語り、他者のゲーム話を聞く、そんなゲーマーに優しい世界がやってくるには、「共通のゲームを話題にしている」という保障、信頼性が高くその上よく練られたIDが不可欠だ。しかし今のGAPIDは711という先頭3桁に発売日順の数値を付け足しただけ。それでは分類による検索性の向上はほとんど望めないよ。ジャンルとかメーカーとかどう分類したらいいか想像するだけで頭かちわれそうだけれど、大事な仕事だ。というか、アーカイブ構築の上では最優先課題となってもおかしくない。

現状、Webでこの問題にかろうじて応えているのは、僕の知る限りでは唯一AmazonASINだ。今ASINは事実上ゲームに言及する際の拠り所、該当するたった一つのタイトルを指し示すための指針にすらなっている。しかしASINの至上目的は商品検索の上での有用性であって、ゲームの議論のための空間作りとはたまたま方向が似ているだけだ。よってASINに全てをゆだね続けるのは雑すぎるし、将来的に通用する基準はきっちりと議論して作られる必要性がある。

一度基準(としてみなしうる利便性)ができてしまえば、その中で多くの人ができることをしようとする。そしてアフィリエイトで小銭稼ぎだとかの意図がなくとも、ある一意のゲームタイトルの情報を引くためにはAmazonの商品詳細ページくらいしか手軽な参照先がない。でもそこに記述されているのは商品情報であって、ゲームタイトルの情報とは似て非なるものだ。ゲームタイトルの情報は、もっと確実に中身とリンクした何かじゃないとダメだ。ダメったらダメだ。

ちなみに僕はAmazon内詳細ページの参照は実質雑誌の折込広告みたいなもんでしかないと思っているのでイヤだ。なのでゲームソフトの名をリンク文字列とする時は(存在すれば)メーカーの制作したオフィシャルサイトを参照している。しかしこれもオフィシャルサイトがやたら404 Not Foundになったり、そもそもほとんどがどーでもいい長ったらしいFlashをしょっぱなから見せ付けるメンドクセー作りになってるのも以下略。

MSN-Mainichi INTERACTIVEのゲームライブラリを使う手もあるが、やたらアクセスに時間がかかる上に肝心のユニークIDは存在しない。長ったらしいデータを羅列しただけのURLがあるだけだ。再利用性はASINよりもずっと低い。そして当サイトで公開している家庭用ゲームソフトリストも一覧性という点で頑張ってはいるつもりだが、正確性や普遍性の高いユニークIDを保障するほど制作者に器量がない。よってこの議論上ではダメダメだ。

ここはもうアーカイブプロジェクトの名にかけてゲーム業界ならぬゲーマー業界に爽やかな一陣の風を吹き込んでほしいと想うばかりなのですよ!以上。

Webリソースも引用できるのだが 2005-12-17T01:37

ちょっと気になった。

http://d.hatena.ne.jp/hally/20051213

の記事がマジですばらしかったです。あらためてhallyさんの力量に敬服いたしました。アタリショックの話と同じぐらい、大きなインパクトのある話です。論文なり書籍なり、ぜひ研究者などが引用できるような形で残していただきたいですね。

書籍の入手には手間も金もかかる。図書館のサービスでおおむねどうとでもなるけど、雑誌や希少文献などは近所の図書館だけではどうにもならない。それでよそをあたってみるが、どこも複写代金は手数料と送料上乗せ当然の上、中身を見てやっぱりいらないと思っても当然返品はきかない。整理・製本中で至急必要な資料が手に入らないこともある。

Webリソースは書籍と同様、引用して利用できる。単純に読むだけならばディスプレイよりも紙媒体の方が目の疲れを意識しないで済むけれど、引用対象のテクストとしてならばコピペと第三者による原本確認が容易(ユーザー登録などの手間のいらない、httpアドレスを知っていれば閲覧可能)なWebリソースの方が僕にはありがたい。研究者の場合、媒体が本でないとまずい理由があるのだろうか。

書かれるべきことは 2005-12-15T21:27:25

「書くべき」ことは少ない。本当に限られている。実際、当サイト内文書の記述を読み返すと、そのような主観的重要性を見出されて生み出されたものが比率として低くなっている。その一つ一つの出来の良し悪しについて、自身でどうのこうのと言ってみせることはしない。だが「書いてみたいこと」と「書くべきだと思ったこと」の差は大きい。そして「書くべきこと」と断定したものよりも「書いたほうが妥当」と判断したものが多く、さらに多いのは「書いてみたもの」という結果。この順位に、僕はひどくショックを受けた。

僕の中には何かを書くことについてある種の慣れが存在している。熟達と呼べるような技術ではなく、書き出せば書けてしまうという慣れだ。僕は両者を明確に区別する機会も、意味も、必要性も見出さなかった。でもそれはたぶん幸福な勘違いというか、罪な無自覚とでも形容するべきものだった。

WWWという空間は誰かと面と向かって自身の文章を読んでもらったり、逆に読ませてと頼まれるような空間ではない(少なくとも現実的には)。そのような場で、僕のように「慣れ」におぼれた人間は愚かだ。僕の中でそれらが吟味され「この文章はどっち」などと色づけしていても、そんなものはローカルルール以下、脳内補完の腐れたナビゲーションでしかなく、多くの閲覧者は僕の書いた言葉について勝手に判断し、いいものがあると思えば探し、ないと思えば去っていく。それはそうでかまわない。でも、文書を主体に考えれば話はまったく違う。

僕は閲覧者至上主義ではなく、文書至上主義として、自身を批判する。文書には、出会うべきものと出会う術を与えてやらねばならない。それを担ってくれる編集社(者)と契約しているわけでもない(ただしサーバーはレンタルしている)僕は、自身の文書を自身の手で巣立たせなければならない。浴びるものが祝福でも蔑視でも、文書には作者から独り立ちして他者の中で生きられる力を与えてやらねばならない。そしてもっとも出会うべき人間と文字群が、邂逅することなく機会を失ったとすれば、それは作者であると同時に編集者としても文書を構成しなければならない僕の落ち度である。

HTML文書として公開する道を選んだならば、HTML文書としての生をまっとうできる構造を与えてやるのは当然の愛情だ。しかし僕はその当然のところを守ろうとする以外、何をしてやれたのか。残したい、書かれるべき何かと向き合いながら書いたのか。本当の奈落は手抜きや手落ちではなく、自覚の無さに呼び寄せられる。僕はこの一年でもっとも反省すべき点をまずここに求めなくてはならない。

Weblog生成コード見直し 2005-12-06T20:04

あまりにスパゲッティなコードだったので、全面的に書き換えていた。しかし思ったより難航して、疲労がたまった。最初はせっかくwell-formedなXHTML的HTMLで記述しているのだからとXML::DOMでいじっていた。しかしHTMLファイルをParseさせると、空要素の末尾の半角スペースが削除されたり、script要素みたいな中身が空の要素が空要素に変換されたりと、XHTML1.0の互換用記述がペケになってしまった。このことに気付いたのが、ほとんどのコードを書き終えた後だったせいでかなり泣けた。結局一から書き始めて、どうにかスパゲッティは回避して皿に盛るくらいのことはできたので、メンテが少しでも楽になればいいんだが。

書きあがって外を見ると、昨日から降ってた雪が20cmくらい積もってる。ドア開けたとたんに猫が走りこんでくるし、ここは本当に京都なのかと思うくらい寒い。ストーブから離れられない。

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updated:2005-12-22